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10月282014

ハンドリングのヤマハVol.5 レーシングDNAの発動。

レーシングDNAの発動。スーパースポーツのマイルストーン、TZR250

レーシングDNAの発動。スーパースポーツのマイルストーン、TZR250

レーシングDNAの発動。スーパースポーツのマイルストーン、TZR250

’80年台に入ってからのヤマハは4ストローク4気筒の傑作車XJシリーズで「ハンドリングのヤマハ」のイメージを取り戻しただけでなく、排気ガス 規制などでスーパースポーツとしては命絶えたとまで言われた2ストを、RZ250で復活させるなど一躍活気を帯びてきた。このRZ250をきっかけにライ バル・メーカーから2スト・レプリカが続出、「ハンドリングのヤマハ」を象徴する1台でもあるTZR250が誕生したのだ。TZR250はヤマハが誇る レーシングマシンのエンジニアによって開発されたのが大きな特徴で、当時のワークスマシンのノウハウがダイレクトに反映されていた。なかでも当時 500ccのGPマシンはそのハイパワーとハンドリングの両立に苦しみ、YZR500の開発テーマも“人間の感性とのバランス”という現在と同じ領域に到 達していて、エンジン特性もハンドリングも基本特性を大切にして過渡特性を滑らかに扱いやすくというYZRそのままの考え方がTZRにも注ぎ込まれてい た。
(以下、本文は1996年のライダースクラブ誌の記事に加筆修正した)

RZ250

RZ250

2スト・スーパースポーツを復活させたRZ250

遂にライバルと同じ4気筒エンジンを採用し、4ストロークのスーパースポーツでも肩を並べるどころか、名車XJ650とXJ400により一躍他を リードするところまで完成度を高めた。両車がデビューした’80年、ヤマハは2ストロークの方でも歴史に残るエポック・マシンを発表した。RZ250である。
それは排気ガス規制などで将来がないと言われていた、2ストローク・スーパースポーツの復活宣言といえるものだった。それというのも’76年の RD400が4ストロークを意識してかエンジン特性も穏やかで、本来の2ストの魅力であるアグレッシブなフィーリングを感じさせるものではなかったから だ。既にスーパースポーツとしての2ストは命絶えた……そう囁かれはじめていたのである。
しかし、レース・シーンではヤマハのイメージ・リーダーとして市販レーサーTZ250やTZ350をはじめYZR500ワークスマシンや TZ750が活躍していたのだ。もともと2ストローク・メーカーだったヤマハを知るファンにとって、このイメージをそのままカタチにしたようなバイクが切 望されていたのは間違いなかった。ヤマハでも何とかこの期待に応えよう、2ストを今後も活かそうという意気込みで、レーシングマシンと同じ水冷エンジンを 採用した新型2スト・スーパースポーツの開発がスタートしたのである

RZ350

RZ350

このプロジェクトは、輸出用ではRD350LC、国内向けはRZ250としてデビュー、とくに日本国内のバイクブームにTZレーサーのレプリカとい うイメージが加わってRZ250は大人気車種となった。本来の2ストらしさを大切にしたピーク域の鋭さと中速域のトルキーなフィーリングに、多くのファン が酔いしれたのはいうまでもない。これに刺激されたライバル・メーカーが追いかけるようにしてこぞって2スト250レプリカを開発、その後のレプリカ時代 を生むきっかけとなったわけだ。
もちろんそのハンドリングも高い評価を支える一因で、扱いやすい安定性をベースに軽快でシャープなフィーリングが味わえるようにと、いか にもヤマハらしいまとまりをみせていた。レース・シーンで圧倒的な強さをみせてきた市販レーサーTZ250・350を開発してきたヤマハにとって、1本の ショックユニットとしたリヤのモノクロス・サスペンションの採用や車体の剛性など技術的に問題なく、例によって実用域での味つけという感性のレベルでこだ わる完成度の高さを誇っていたのだ。この誰でも楽しめるハンドリングに、大成功を収めたXJシリーズと共に「ハンドリングのヤマハ」イメージが当然のよう に思われはじめたのもこの頃からだ。しかし、本当の意味での「ハンドリングのヤマハ」としての闘いは、この後に正念場を迎えるのだった……。
つづきはコチラから

後半はコチラから

ハンドリングのヤマハ Vol.1
「ハンドリングのヤマハ」Vol.2
ハンドリングのヤマハ Vol.3
ハンドリングのヤマハVol.4 根本健


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10月152014

ハンドリングのヤマハVol.4 根本健

XS-1からXJ650へ。
ビッグバイクハンドリングの礎。
ライバルの4気筒勢に負けまいと開発した NewビッグツインTX750、TX500が不人気に終わった後も、継続して改良の手を緩めなかったバーチカルツインXS-1(ネーミングはTX650に 変更されていた)。しかし、このバイクが残した車体関係のノウハウなくしてその後のヤマハのビッグバイクはあり得なかったと言っても決して過言ではない。
当時、僕はそれまで所属していたカワサキ系チームを出てプライベート・チームを結成、それまでワークスライダー以外はレースでプロと して飯が喰えないという状況にチャレンジを開始していた。賞金もろくに出ない状態だったので、スポンサーを獲得する一方、関連産業の開発テストに関わると いう副業が必要で、ラッキーなことにタイヤメーカーからテストライダー兼エンジニア的な仕事を請け負うことができたのだ。
その頃、日本のバイクメーカーは初のビッグバイク・チャレンジでどこもハンドリングに悩まされていた。無理もないのは、ほとんどスタ イリング・スケッチを先に描きそれに従って車体を設計していたのだから、たとえばエンジンの搭載位置も重心が低い方が安定性が高いであろうという程度はわ かっていても、これとホイールベースやアライメントの関係などのノウハウは皆無に等しかったからだ。250ccクラスならそれでも通用したが、4ストの ビッグバイクともなると200kgを越える重い車重とエンジンの強大なパワーは、真っ直ぐ走ることさえむずかしくする。ましてや市販車で200km/hと いう、ビッグバイクの先輩メーカーである海外ブランドも未踏の領域に達しようとしていたのだからなおさらである。

各メーカーは剛性などシャシー改良もさることながら、それまで重視していなかったタイヤやサスなどの性能にこだわりはじめたのである。これら機能 パーツは、下請けメーカーがアッセンブリー・メーカーの指示通りに造ってライン装着用に大量納品すれば良いという図式だったが、バイクメーカーから各々の パーツメーカーに対し、独自の技術力の構築の要求がはじめて下されたのだった。
そうした背景があったからこそ、僕はタイヤメーカーの開発テスト業務にありつくことができたのだ。タイヤメーカーにしてみれば、それまで車重や馬力などバイクメーカーから指示されたスペックで最大荷重を設定したタイヤに、 バイクメーカーのテストライダーからの改良要求を加えれば事足りていたライン装着(OEMという)タイヤの開発に、いきなり独自の技術構築をせよというの だから実に大変な事態になったわけだ。
しかし、僕にしてみればバイク用タイヤの基礎から学ぶ絶好のチャンスでもあった。市販車用のOEMタイヤの開発から国産初のレーシング・スリックタイヤの開発まで、創成期ならではのやりがいのある毎日を送ることができたからだ。
そのなかで量産車用OEMタイヤ開発で最も印象的だったのが、他ならないこのヤマハTX650だったのである。タイヤメーカーとして は、どのバイクメーカーともOEMタイヤ開発でつきあうが、ヤマハが中でもハンドリングに最もシビアだった。そのヤマハがビッグバイクのシャシー開発のノ ウハウを賭けて取り組んでいたTX650のテストの物凄さといったらない。しかし、その真剣さに僕とタイヤメーカーのエンジニア・チームは感銘を覚えた。 ここでヤマハと徹底的につきあっておけば、ビッグバイク用タイヤ開発のノウハウもいち早く手に入る……。そう判断したチームは、ヤマハからの要求をすべて 受け入れることにした。

ハンドリングのヤマハVol.4 XS1からXJ650へビッグバイクハンドリングの礎

ハンドリングのヤマハVol.4 XS1からXJ650へビッグバイクハンドリングの礎

 

ハンドリングのヤマハVol.4 XS1からXJ650へビッグバイクハンドリングの礎

ハンドリングのヤマハVol.4 XS1からXJ650へビッグバイクハンドリングの礎

ヤマハサイトVol.4前編はコチラ
ヤマハサイトVol.4後編はコチラ

ハンドリングのヤマハ Vol.1


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10月082014

ハンドリングのヤマハ Vol.3

’60年代初頭からの世界GPチャレンジで見事タイトルを獲得し、スポーツバイクのヤマハを世界に知らしめた’60年代末期、日本メーカーもビッグ バイクのカテゴリーに挑戦を開始し、二輪車開発激動の時代に突入していく。2ストロークが主体だったヤマハも、当然、4ストローク・エンジンの重量車開発 というテーマに取り組むことになる。他メーカーがこぞって4気筒エンジンの開発に心血を注いだのに対しヤマハはビッグツインにこだわった。軽量、ハイパ ワーなバイク作りを得意とするヤマハが、独自路線で世界を目指すのは自然な流れだったのだろう。しかし、ツインエンジンで4気筒に対抗できるマシンを目指 したことがハンドリングをむずかしくしてしまい、ヤマハのピンチを招くなどと誰が想像できたであろうか……ライバルに追従せず、ビッグツインで苦しむこと になるが、結果として早くからハンドリングを学ぶことになり、レーシングマシンで培ったハンドリングのノウハウは、ストリートの4ストローク・ビッグバイ クにも受け継がれていったのだ。

(以下、本文は1996年のライダースクラブ誌の記事に加筆修正した)

XS-1

1970 XS-1
ヤマハ初の4スト・ビッグツインXS-1。英国車の路線を選んだスタイリングで’70年のデビュー。空冷SOHCのバーチカル・ツインは 75mm×74mmの653cc。圧縮比9.0で53PS/7,000rpm。5段ミッションと185kgの車重で最高速度185km/h。XS-1は TX750やTX500が短命に終わった後もTX650として継続して改良が加えられ、さらにアメリカン・スタイルのスペシャルというシリーズに転用され て記録的な長寿バイクとなった。

 まだ日本のメーカーが世界GPに血道をあげていた’67年、ホンダは初のDOHCヘッドをもったはじめての大型車、バーチカルツイン のCB450を発表した。CB72とCB77(250ccと305cc)で世界にスーパースポーツのメーカーとしてイメージを確立した後の次のステップへ チャレンジを開始したのである。またカワサキも、吸収したメグロのOHVバーチカルツインを650までスケールアップしたW1を投入、2スト3気筒500 のマッハⅢと共に大型車マーケットに参入を開始したのだった。

実は’60年代以前のバイク黎明期において、いくつかの日本メーカーは500ccやそれ以上のビッグバイクを生産していたのだ。しかしそれは英国車やド イツ車のコピーで、高価で希少な輸入車を買えない国内ユーザーに向けた商品で、性能的にも輸出できるシロモノではなかったのだ。
それが’60年代後半になって再び大型車へのチャレンジをはじめたのは、いうまでもなく海外の市場を睨んでのことだ。それもアメリカに照準を据えてのこ となのである。’60年代から’70年代のアメリカは、バイクメーカーにとって最大のマーケットだった。若者は英国のトライアンフやBSAなど650cc クラスのビッグバイクを乗りまわすことが流行で、これに乗じようとBMWもアメリカ・ナイズされたカラーリングの750ccを投入していた。

詳しくはコチラから

後編はコチラです


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